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松山の成り立ち

2020/01/25

松山市北条の地形と集落の成り立ち

今回は、松山市の北条の集落の成り立ちと地形の関係を池内が見ていこうと思います。

 

北条の地質と國津比古命神社

 

4世紀 に書かれたとされる 国造本紀という名前の文章の中に「風早」の名が見られます。これが北条の地が歴史の中に最初に出てくる文章だと言われています。奈良時代(710-794年)より前の大和朝廷の時代には国造という行政単位によって地方の管理を行っていました。愛媛には5つの国造があったといわれており、その一つが風早=北条の地にあったとされます。

 

八反田にある國津比古命神社は、風早国造に任命された物部阿佐利によって創建されたとされています。

 

愛媛の国造はほかに

伊予の国のもとになっている伊余国造、松前の伊予神社が創られています。

今治東部を管理していた小市国造、越智氏によって大山祇神社を創建されています。

今治西部を管理していた怒麻国造、若彌尾命によって野間神社が創建されています。

東温市のあたりを管理していた久味国造、日尾八幡神社に祖神が祀られています。

があります。

 

今の松山が江戸時代に松山城が開城したことをきっかけに城下町として発展しているので、気づきにくいですがそれまではむしろその周囲の方が行政・産業の中心になっていました。道前、道後という言葉からもわかるように近畿圏に都がありましたから、今の西条側の方が表で、松山側はどちらかというと裏。北条と松山の関係で見ても、瀬戸内海の航路上に忽那諸島も重要な役割を古来から果たしてきましたから、北条が表で松山が裏というイメージがあったのではないかと思います。

 

國津比古命神社は高縄半島の主峰、高縄山の麓にあり、すぐ北側には、高縄山に源流をもつ立岩川が流れています。

 

立岩川は高縄山の花崗岩質の岩石を削り取って形成されてきているので、砂質土が堆積しているために普段は伏流水となって流れている割合も多く水量の少ない川に見えますが、流域はかなり広く、大雨の時にはかなりの水が山々から川へと流れ込んできます。海と山の距離が近く、急勾配で谷地を流れ込んでくるので下流部では洪水に悩まされてきていました。


出典:国土地理院ウェブサイトより編集

國津比古命神社を地質区分をみると 花崗閃緑岩が山側から突き出た位置にあることがわかります。高縄山から流れてくる立岩川は國津比古命神社の突き出た大地によって向きを変えて鹿島までの間が水から守られるかたちになっています。

 

出典:縮尺5万分の1の土地分類基本調査(昭和42年から昭和56年まで)「松山北部」より編集

 

八反田から鹿島へかけての平野はこのように、水に近い立地条件を保持しながらも水から守られた、近く離れずの関係を自ずと取ることのできる恵まれた環境になっていることがわかります。古代の集落によく共通してみられる特徴として、人工的に水路などを整備する手間が少ない状態で、田の土壌の栄養が保たれ、水が運び入れられる緩やかな斜面地 という特徴があります。

出典:国土地理院ウェブサイトより編集

 

断面図で見ても國津比古命神社へ向けて緩やかに勾配をもって下って行っているのがよくわかります。

 

 

信仰と要塞の島 鹿島

 

國津比古命神社が地質上、岩石が突き出たかたちになっていたことで他よりも高い台地状の形状が保持できていたように、鹿島もまた周囲とは異なる地質区分をもっていることで周囲に対して突き出た形状を保持しています。

断面図で比較するとよくわかるように、鹿島は國津比古命神社の台地と比較してもかなり高いことがわかります。ここから二つは同じように他と違い岩石で出来ているが、鹿島の方が硬く耐候性の高い岩石であるために長い年月の風雨にさらされても高さを保持し続けられた結果であるということが推定できます。

出典:国土地理院ウェブサイトより編集

 

鹿島の地質区分を確認してみると、石鎚層群の輝石安山岩・玄武岩質安山岩・さぬき岩質安山岩に区分されていることがわかります。國津比古命神社の領家帯貫入岩類の花崗閃緑岩でした。分類の右側をさらにみると、鹿島の方が新第三紀、國津比古命神社が中生代となっています。

 

出典:縮尺5万分の1の土地分類基本調査(昭和42年から昭和56年まで)「松山北部」より編集

 

「新第三紀」「中生代」というのは地質時代を現していて、中生代が 「約2億5217万年前から約6600万年前」恐竜が生きていた時代になります。新第三紀が「2,303万年前から258万年前」にあたり、この頃には現在の生物に近い生物が化石で見つかるようになります。3㎞ほどしか離れていない距離で、数千年から数億年の違いがある岩石が存在しているということです。そして、この年月の違いがまず二つの地形の違いを生み出しています。

 

鹿島の地質区分に書かれている「さぬき岩質安山岩」は、名前の通りでさぬきの日本昔話に出てくるような丸っとした通称、讃岐富士と呼ばれる山々が生まれるもと となっている岩石の一つです。これらの山は、ヘルメットのように硬く耐候性のある安山岩を被ることで、その下にある柔らかい岩石を守ることで周囲よりも高く、独立した頂きを形成することが出来ます。

 

北条の地質区分を改めて見てみると、鹿島以外にもいくつか「輝石安山岩・玄武岩質安山岩・さぬき岩質安山岩」に区分されている小さな塊があることに気づきます。その部分の標高を地形図で見てみると、勝折山の山頂、恵良山の山頂を形成していることが確認出来ます。

 

 

出典左:縮尺5万分の1の土地分類基本調査(昭和42年から昭和56年まで)「松山北部」より編集、右:国土地理院ウェブサイトより編集

 

どれも、周囲より少し高い標高を保った頂きとなっています。古い年代の岩石の上に新しい硬いヘルメットが残ったところが鹿島はこのように、風雨などからの浸食から守られ高い頂きとして残ることが出来たのです。

 

安山岩のヘルメットを被った、鹿島と腰折山と恵良山 は北条の古い民話に揃って出てきます。その昔、三山は並んでそびえ立っており鹿島山と腰折山と恵良山は相撲をすることになり、はじめに鹿島山と腰折山が相撲をしたそうです。そのときに鹿島山が投げ飛ばされて、今の位置に落ちたために二つの山から離れた海に鹿島だけが浮かんでおり、負けた鹿島はくやしがり、近くの大きな岩を腰折山に投げつけて命中したため、今の腰折山のかたちが歪んだかたちになったのだそうです。

 

このように海に投げ飛ばされた鹿島は海上を管理する上で重要な拠点として位置づけられます。特に時代が進み航法技術の向上とともに重要度は増していきます。

 

AC200年頃に日本が韓国を攻めた時に戦勝祈願をしたと言われており、古くから崇拝の対象とされてきたことが伺えます。

 

室町期には今治の小市国造であった越智氏の流れをくむと言われる河野氏が鹿島に要塞を築きます。河野氏は河野水軍を率い、道後の湯築城を築城した一族としてもこの地域の歴史上で重要です。この河野氏の「河野」の由来は、先祖である越智氏が都落ちしてくる際に飲み水が無くなった際に海中に弓を差し込み描き分けたところ、真水が湧いて喉を潤すことが出来たという故事にちなんで、

 

この水の源は高縄山から流れてきたものであるとして、

「この水の可なること、予が里よりす」と越智氏が言ったことことから

「水」「可」「予」「里」の4文字を組み合わせて、「河野」としたといわれています。

 

北条の海岸線の地質区分をみると予讃線のあたりまで扇状地が迫り、そこから先は砂州・砂丘と氾濫平野になっていることが確認できます。三津の河口のように土砂が押し流されて三角州を形成していた地形と違い、硬い岩盤が川の流路を制限して砂州の形成は海の影響が大きいことが見てとれます。

 

出典:国土地理院ウェブサイトより編集

 

鹿島に建つ鹿島神社の御旅所は鹿島の対岸にあり、周囲から少し突き出たところにあります。御旅所は鹿島によって波から守られたエリアにあることによって周囲よりも砂が残りやすく、風からも守られやすい立地にあります。この突き出た形状は鹿島との関係から生まれていることが想像できます。

北条港は明星川と長沢川が流れ込む沼地であったところを砂を取り除き掘り下げて港としたとされていますから、鹿島の対岸の砂州のなかで比較的、水気の多い場所が選ばれたのだと考えられます。この川と海がつながり、かつ、鹿島によって守られた鹿島に対して突き出た場所が御旅所として選ばれたのではないかと考えられます。

 

江戸時代から明治期の頃に描かれたと思われる絵図を見ても、今の港の原型となる砂州と川の関係と御旅所と思われる建物が見て取ることができます。

 
出典:愛媛県行政資料目録(藩政期,明治期篇) 風早郡之図  資料番号MM-027

 

北条 商人の町、宿場町

 

江戸時代には今治街道の街道町、地乗りの船の寄港地として北条の町は発展してきました。絵図でみると、農村ではなく町として発展していたことが建物の違いとして見えてきます。

 


出典:愛媛県行政資料目録(藩政期,明治期篇) 風早郡之図  資料番号MM-027

 

國津比古命神社の周囲は、港から内陸側に入っていますので茅葺の農村が広がっていたように見えると同時に、周囲の建物よりもひと際大きい屋敷が描かれているところから、他よりも重要な集落としてこの当時も位置づけられていたことが伺えます。

 

出典:愛媛県行政資料目録(藩政期,明治期篇) 風早郡之図  資料番号MM-027

 

江戸初期には、立岩川はいまの明星川を河口としていたといわれ、難波橋あたりから西から南へと流路の向きを変えていたとされています。当時は松山藩と大洲藩に北条の地は分割されていて、その境界は明星川を河口としていた立岩川によって定められていました。

当時は農村は農業をするための場所であり、商いをする場所ではありませんでした。その中で北条が町として発展していったのは、松山藩からの特例が出ていたことによりました。大洲藩と松山藩に二分されていた北条が、替地によって松山藩に統一されて、中世より河野氏の拠点として街道沿いで商業機能をもっていた場所を中心に、在町(在郷町、町分)という、藩から農村にありながら商いを許可される場所に位置づけられるようになっていきました。街道沿いを往来する人のための宿屋も生まれてきて、宿場街としても機能するようになり人口が周囲よりも増えていきました。

元禄時代(1688-1704)のころには村と町とが分離して、住みわけが形成されたといわれます。幕末に近づいていくと、村の庄屋の衰退と町の成長がはっきりとしていきます。

特に米屋が重要な地位を築いていました。当時は米市場でお米が証券のような扱いをされたりもしているくらいに米が中心の社会でしたから、米屋が銀行のような役割を果たしたりもしていました。北条でも、藩から御用役に任命された米屋も出てきて銀行のような役割を果たし、町の経済を左右する存在となっていたようです。

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