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三津浜の地形とまちの成り立ち
今回は、三津浜の地形とまちのつくりについて、国土地理院が提供しているweb上のmapを利用して 池内が見ていきたいと思います。今回の内容は下記になります。
1-江戸時代以前の三津浜
2-江戸時代の造成 湊から港へ
1-江戸時代以前の三津浜
三津は古くは「御津」と呼ばれ、天皇家との関わりも深く、万葉集に出てくる熟田津に関わる言われるほど、松山のなかでも歴史が古い地域になります。三津のなかに町名で古三津という地名があることからもわかるように、古くはもう少し内陸側にありました。
万葉集に出てくるころからの港ということは、奈良時代からの港だと推定されるということです。奈良時代の船の技術でも安心して停泊が出来るということは、天然の良港の十分な素質があるということです。
刈屋口という古戦場であった場所に常夜灯があります。いまの宮前尋常小学校のあたりにあったと言われます。常夜灯は鞆の浦のものなどが有名ですが、港の灯台のような役割を果たしていたもので港につきもののものです。今よりも奥まで海岸線が伸びた天然の湾があったのではないかと思われます。
出典:国土地理院ウェブサイト
国土地理院のホームページを開くと地理空間情報ライブラリーという項目があります。こちらをクリックすると、国土地理院の地図をweb上で閲覧することが出来ます。
出典:国土地理院ウェブサイト
googlemapなどと同じように、上部にあるテキストボックスに気になる地名などを入力すると、下図のように候補リストが表示され、クリックするとその場所に飛ぶことが出来ます。
出典:国土地理院ウェブサイト
国土地理院のwebmapはただ国土地理院の地図をweb上で見れるだけでなく、国土地理院等がこれまで調べて地図情報へと変換してきた様々なデータを重ねることができます。
左上の情報の文字をクリックすると、重ね合わせられる様々な情報のリストが表示されます。今回はまず、スクロールをしていって、その一番下の方にある2020年1月現在で試験的に提供されているベクトルタイル提供実験に入っているデータを使用します。
ベクトルタイルとはこれまでRGBによる写真の画像データのような形式であったものを、イラストレーターやCADなど作成した線データのような形式で作成されたデータになっており、これまで以上に色んなデータを重ねたり、消したりを自由に行えるようにしたものになります。GIS(Geographic Information System)という分野の技術進歩によって達成されているもので、GoogleMapなども広義で言えばGISに属するものになります。
ベクトルタイル提供実験をクリックすると、またたくさんの情報リストが表示されます。このまた、一番下の方までスクロールして出てくる 地形分類(人工地形)をクリックします。そうすると、下図のように人工的造成や埋め立て、切り下げなどをされた地形がどこにあるかが表示されます。
出典:国土地理院ウェブサイト
赤く塗られているところが埋立地などの人工地形、塗られていないところが自然の山などの地形です。ざっくりした見方をすると、塗られていないところが頑丈な地形、塗られているところが自然地形よりは頑丈さに劣るところ、ただしそのデメリットを補う人工的な対応をしている可能性もあるところ、という感じです。三津の人工地形の地形分類を見てみると、山西町のあたりまで埋め立て地であることがわかります。次に、地形分類(自然地形)をクリックしてみます。
出典:国土地理院ウェブサイト
自然地形の地形分類を被せると、厳島神社のあたりを中心として砂州が形成されていることがわかります。三津の渡しが洲崎の渡しと呼ばれることからもわかるように、(砂)州の先(崎)であるから洲崎とここが呼ばれていました。厳島神社のある神田町の南の須賀町はまさに、ここが広い砂州であることをあらわした町名です。
古三津の方には中須賀という地名もあり、ここが中州(須)であったことを想起させます。仮にここに中州があったのであれば今の宮前川がこのあたりまで河口を広げていたことが想像されてきます。
地形分類をより詳しく見ていくと、山西駅の西側から古三津のあたりに低湿地帯が広がり、そこが河川の底だったと推定されます。厳島神社の東には秡川という町名も残り、ここに河川が通っていたことを想像させます。秡川の町名の由来は、禊によって水で身を清めていた川であったことによるといわれます。厳島神社の東の橋の名前は禊橋と呼ばれ、この地域で禊が行われていたことを伝えています。
江戸時代の港の築造の前は、自然地形の砂州によって形成された、天然良港としての湊があり、砂州の上に嚴島神社が祀られた風景が広がっていたことが想像されます。
2-江戸時代の造成 湊から港へ
三津が本格的に「港」としての機能を持ち始めるのは、江戸時代に入って内陸部に松山城下町という消費地が出来てからになります。松山城の整備とともに、三津には船奉行所がおかれて藩の海軍のための船場がつくられます。海が重要な役割を果たす瀬戸内海において、戦国時代のすぐあとの時期においては海の防衛を重視することは当然のことだったと思われます。
この軍港としての整備が三津の発展の契機となります。船場はいまの住吉町2丁目のあたりにあり、当時はまだ三津浜商店街のところは「北浜」と呼ばれる浜で、その先は堀川が流れていました。船場は水の上に独立して存在していて、商店街の入口付近にある住吉神社は船場にあったと言われています。海の神様を祀る住吉神社が船場にあるところは、江戸時代の時代性を現していると思います。
「今昔マップ on the web」より
明治の頃を今昔マップで見てみると、既に住吉神社は移されて住吉町が生まれていますが、まだ埋め立てられておらず船場だったところが独立した島であったことがわかります。またその水路を形成するために堀川が急角度で曲げられていまの辰巳町のあたりがもっと広かったことがわかります。
商店街のあたりが町の中心ではなかったということは、どこが町の中心であったかというと町屋は三津の渡しのある洲崎のあたりから南の藤井町、三穂町、松前町(新町)、久兵衛町、大工町。いまの住吉町、江戸時代に北浜と呼ばれた浜と船場があった場所の南側が船頭・武士が住んでいた屋敷町があり西から柳町、桂町、久宝町(船頭町)がありました。
出典:国土地理院ウェブサイト
改めて、国土地理院の地図で人工地形を表示して、町人の町(赤)と武士の町(青)の位置をプロットしてみると、町人の方が人工地形の上に、武士の方が自然地形の方に集中していることがわかります。最初に港を整備した武士の方が自然地形であった場所から新たに船場を築造し、その後 町の発展とともに町人が埋め立てを行いながら拡張していっている様子が見て取れます。
江戸時代の商港(外港)は今昔マップをみると見て取れます。今の中島へ出るフェリーが出ているところが、商用の船が出入りしていた場所になります。赤のL字で示したところが防波堤で今は周囲が埋め立てられてわかりませんが、当時は海に突き出て港を波から守っていました。先ほどの西側の埋立地にあった町人町のすぐ近くに商港がある関係になっています。