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三津浜の地形とまちの成り立ち2 江戸から明治へ
今回は、200111の記事の続きで、三津浜の江戸期から明治の開発の流れを池内が見ていこうと思います。
奥行のある湾による自然の良港として、古代から湊としての地位を築いていた三津浜が江戸期の松山城の開城にともない、松山城の軍港そして商港としての港湾都市の機能をもつために埋め立てや防波堤の築造が行われて「街」として整備されていきました。
最初に船場がいまの住吉町の北側に形成され、軍港としての整備が進みます。そこから、いまの中島へのフェリーの発着所付近に防波堤の整備がされ、土地が埋め立てられて商港としての整備が進み、陸側の東に武家屋敷、海側の西に町屋 とすみ分けされた街としての骨格が出来上がります。
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江戸時代の三津浜
江戸時代は町人の町の中心は桜町の方にありました。須崎からの南北の通りと東西に伸びる武家屋敷からの通りがぶつかる、町人の町と武家の町のちょうど接点となる場所に町会所が設けられたことは、商いと藩との折衝のバランサーとしての役割を効率的に行えることを意図しているように感じます。
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須崎町の朝市 もとは江戸時代のはじめ元和三年(1617年)にはあったといわれますが、寛文(1661-73)のころまでは、市場のみで問屋はなかったようです。寛文3年(1663年)に藩が3名に肴問屋を命じ,広島から牡嘱 をとりよせたり,桑名より白魚をとり入れ放流したりしはじめます。
その後、元禄6年から15年(1693-1702年)までに18名に新たな生魚問屋が任命され、この頃に任命された他のた諸問屋株31株とともに、明治(1872年)まで継承され続けたようです。
生魚という鮮度を要求される商品が港となかでも、海に近い須崎町が立地として選ばれたことは必然のように感じます。
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現在の三津浜小学校は古くは船奉公所であったところが、明治20年(1887年)に小学校になったものになります。船場や武家屋敷が北東側にあるのに対して、南西側に船奉公所があった大きな理由は水の確保にあったと推定されます。海沿いにおいて、ポンプによる水道がまだ普及していなかった江戸時代には海岸線での水の確保は井戸水に頼るしかない状況でした。しかし海沿いということは水に塩分がまじる可能性があり、周囲に水があるからただ井戸を掘れば水が確保されるという簡単な状況ではありません。
また当時は帆船ですので、天候に運行状況が左右されました。なので、例えば藩主が港まで来たからと言って、すぐに出発できるとは限りません。風待ちのために、数日の滞在も必要なケースもありました。しかも、それがお付きの人たちをたくさん引き連れての滞在ですから、水の確保は最優先事項となります。
その中で選ばれたの現在の小学校の敷地内に保存されている「御茶屋井戸」と呼ばれる良質な水が湧き出る井戸でした。
三津にはもう一つ古い良質な水が湧き出る井戸があり、辻井戸と呼ばれ、江戸時代は御船手(藩の船を扱う人たち)のために利用されていたものがあります。二つの井戸の位置を国土地理院の地形分類で、見てみるともともと自然地形だった場所にぎりぎり入っていることがわかります。そのすぐ西側は江戸時代の埋め立て地で古くは海でした。また現在の渡しのある北側の突端が須崎と呼ばれていることは、地形分類上は埋立地になっていますがなにかしらの砂州から北側へと突き出た地形が形成されていた可能性も想像させます。推定ですが、その突き出る圧力を形成していた一つが地下水として流れていた水の力なのではないかとも考えられます。
二つの井戸以外にもこの二つの井戸を繋ぐ南北の軸には、井戸が多く、酒屋や醤油蔵といった水を扱う生業の建物が見られたようです。このように宮前川の力によって形成された砂州が天然の濾過器となって、三津浜に良質な水をもたらしていたのです。
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明治維新後の三津浜
明治になって決定的に大きな内容は、
武士が占めていたエリアが開放されたこと、
水運中心だった物流が陸運へと切り替わっていくこと
そして、水が井戸水から水道へと切り替わっていくこと にあります。
明治以後、松山藩は解体されて三津浜でも藩の船を扱っていた船場や武家屋敷、船奉公所などが開放されていきます。船場は遊郭に、武家屋敷のあたりは住吉町として路面電車の開通と新しい商店の進出によって活気づきます。前述の通り、船奉公所は小学校へと変貌を遂げて、藩が持っていた力は新しいかたちへと変換されていきます。
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武家の管轄であった場所が開放されていくことで、はじめは人口が急減していきます。しかし、港としての地位が高かった三津には四国初の鉄道が伊予鉄道によって開通します。これによって三津の歓楽街としての地位が高まっていきます。明治の中期から後期にかけて北浜から船場にかけての街のつくりが大きく変貌していき、三津における商いの中心が鉄道と船を結びライン=現在の商店街付近へと移っていきます。
堀川によって小島として独立していた船場の跡地には遊郭が設けられ。二つの橋によって出入りがされていました。二つの橋は「思案橋」と「見返り橋」と呼ばれ、遊郭らしい名前が付けられていました。この本土から独立しているという立地は管理面でも、そしてこの橋を渡るという演出面でも、環境を活かしたつくりになっていました。
このように幸先の良いスタートを切った三津でしたが、しかし船が帆船から汽船へと変わっていくことで、三津の港湾施設としての不適合性が露呈していき、新しい港が求められるようになっていきます。帆船に合わせてつくられていたので、汽船に合わなくなってきたのです。
新しい港の一つに旅客船のメインを高浜港へ移す流れがあります。これは伊予鉄道が高浜まで延伸されていたこと、そして興居島の向かいに位置する高浜も江戸時代から海上が荒れた時の避難港として利用された良港であったことが大きく効いてきます。最終的に明治40年(1907年)高浜港の開港とともに、旅客船の玄関港としての役割が高浜の方へとシフトしていきます。
時系列でみると下記のようになります。
明治21年(1888年)伊予鉄道が松山-三津間で鉄道開業
明治25年(1892年)高浜まで伊予鉄道全通
明治26年(1893年)船場に遊郭が移転
明治40年(1907年)高浜港開港
明治44年(1911年)松山電気軌道が三津駅付近まで開通 翌1912年、船場の付近まで開通
昭和 2年(1927年)松山電気軌道が三津周辺の路線を廃止。
松山市では大正15年(1926年)に上水道の取り扱いの検討が開始され、昭和6年(1931年)に三津ではじめて給水が開始されます。続いて、昭和11年(1936年)に道後で、昭和28年(1953年)に市内での給水されるようになります。三津は市内では一番最初に給水された地域になります。
それまで井戸水頼りだった生活の場所に、鉄道の開通によって多くの人が訪れ、商いをするように変貌を遂げた状況で、水道の開通は悲願であったようです。水道の開通とともに、井戸水の利用は徐々に減っていき、いまではほとんどの家庭・商店で使われなくなった井戸が庭先に放置されております。